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7月29日のヨーロッパの旅13から二か月以上更新をしませんでした。
その理由はパリの地下鉄である出来事に出合いましたが、何故そうなったのか解らず思い出すことに時間がかかり最近ようやく説明が出来そうなスケッチを描けそうです。
そのスケッチが完成次第、エピソードとして投稿します。
7月29日のヨーロッパの旅13から二か月以上更新をしませんでした。
その理由はパリの地下鉄である出来事に出合いましたが、何故そうなったのか解らず思い出すことに時間がかかり最近ようやく説明が出来そうなスケッチを描けそうです。
そのスケッチが完成次第、エピソードとして投稿します。
九度山駅から慈尊院へゆく途中に真田庵がある。
長年に亘りここを訪れたいと思っていた場所です。
真田三代記や真田物の小説は殆ど読んだから関ヶ原の後、雪村と共にここに蟄居させられた昌幸の無念さを思う。
境内に昌幸のお墓があり篤く手を合わせる。 1600年の関ヶ原後に家康は真田親子を九度山に蟄居させ、昌幸は1611年にここで亡くなった。
墓は信州の松代、上田にもあるそうです。
境内には“炬燵して 語れ真田の 冬の陣”の蕪村の句が石塔に掘られている。
そしてもう一句“かくれ住んで 花に真田が 謡かな”
蕪村は1716年生まれで1784年没だから昌幸没後150年頃に詠んだのかな。 ここに来て詠んだようです。
蕪村は大阪に生まれた故に大阪城を守り最後まで戦った真田雪村の特に冬の陣の活躍を150年過ぎても大阪で語られて居たのであろう話が気になってこの句を詠んだのかも知れません。
初めて来た九度山という所は高野山の上り口でもありそれなりに賑わっており思っていたよりも開けた場所でなんだか安心(?)しました。
それと上田城から見た千曲川と真田庵(もしここに真田親子が住んでいたのであれば)から見える紀ノ川と似ているような気がする。
私の下半身麻酔は“脊髄くも膜麻酔”と言い脊推骨の間から注射し、下半身を数時間麻痺させる。
病室に戻ってほぼ20-30分後、両手を薄い掛布団の中でへそ当たりまでおろすと、へそ当たりに段ボールのような壁があり、ああこれで施術箇所を保護しているのだな、と思った。
3時間後、足に感覚が戻ってきた。 ところが先ほど有った段ボールが無い。 今から水を飲めますと言って看護婦に水を飲ましてもらったので、彼女にヘソの当たりにあった段ボールは何時外したの、と聞くと
“そんな物は有りません。 この病院にはそんな物は有りません”と一蹴された。
その時の記憶を頼りに下記スケッチ作成。寝た状態で書いた物です。
自分の左右の指は確かにダンボ-ル状の壁に触れ上下に高さがある事を確認している。
その時に左右の段ボールが繋がる上部を指で確認するべきであった。
つまりこれが妄想なのか。 ヘー!
翌日昼前に退院できるようになった。 その少し前、隣にいた同年の男性Sさんが退院時、看護婦にダンボールの事を聞いていた。 その話を聞きたかったが私がナースステーションに行っている間にSさんは退院してしまった。
麻酔に関する説明を麻酔医に聞いたり同意書を読むと麻酔は非常に怖い、危険な物であります。
6月中旬に毎月行っているクリニックの先生から、血液検査で前立腺のガンを簡単見つけられるからPSA検査を受けたらと勧められその結果4.04と言う微妙な数値が出た。数値的な限度が4.0だから。
それで、先生は泌尿科を紹介するからと。
泌尿科に行くとMRI検査を勧められ、写真にカゲがある。 9割は大丈夫だ
が1割は疑問がある。 前立腺生検でサンプルを取って検査する事を勧めら
れる。 肛門と陰嚢のあいだあたりから針をさし前立腺のサンプルを約16
カ所から採る。その為に8日に入院して夜から絶食し9日に施術をした。
下半身麻酔や尿道に尿管を入れられてしまった。
10日に退院したが、すっかり病人上がり的になり気力が湧かず力が出ない。
一昨日、昨日、今日とまだ禁止されている自転車に少し乗ったが早く普通に
動きたい。
16日に検査結果がでる。
なにかスッキリしない。
*PSA検査の4.04と言う微妙な数値
*MRIで時間と金を掛けてもカゲしか見えぬ(縦横約5mmのスキャニング)
*検査時に針が当たらない事もある
*今回腫瘍が見つからなくとも3ヵ月から一年おきにPSA検査などを勧め
る。
*その後も腫瘍が疑わしい場合は生検を勧めると言う。
これは、シニアになるとこの位の安心処置をしろ、と言う事か?
何回も試合の録画を見た。
何回見ても飽きない。
ユーチューブでも見た。
心地良い。
同じ試合を何回見ても面白い。
なぜだろう?
それが漸く解ってきました。
ビデオを見ているとき私が“ここでキック” “ここでシュート”と思う時に、なでしこの選手達はキックし、シュートしている。
男子の試合を見ているときにイライラしたりじっと見て居られない理由は、ここでキックを、シュートを、と思っても、しないでパス等をしたり訳もなく止まったり、そしてチャンスを逃す。
しかし、今回のワールドカップで戦った“なでしこ”達の状況の判断力、決断力、冷静さなどは男を上回っているように見える。
男の全日本の監督達がやりたかった事を“なでしこ”すでにはやっている。
勿論、体力、スピード、は男のほうが格段に上であろう。
殆どの選手は仕事を持ちながらやっているから半端な気持ちではない。そこから来る真剣さと強さが修羅場でも力を出す。
PK戦、誰でもが緊張する場面。しかし“なでしこ”は違ってなんと笑顔でリラックスしていた。
同じ様な場面で男のチームではこのようなリラックスは見た事が無いですね。
アメリカのキッカーは三人共に顔が引きつって負け顔になっていた。
初めて知った彼女達のサッカー、これからは機会が有れば見るぞ。
4日程前から“T”のノートPCがおかしくなった。
Windowsが立ち上がらないのです。
もう15年程まえから“T”社のノートを使っており3代目。
仕方なくサービスに電話して症状を話し、電話の指示で操作をくりかえしたが、立ち上がらない。 何回も電話で話し、テストでXPとVistaのリカバリーCDを使ってみたがCDが立ち上がらない。
つまりこのPCはこわれている、事になった。 それで“T”に送って直すのはどの位の費用が必要か、そしてデータを取り出すことが出来ればそのコストは? 約35,000円くらいかという事。
だがデータを取り出す事は不可能に近いようだ。
翌日、量販店のYに行き話しをしたが解決策はない。 が、PCからハードディスクを取り出し動いているPCでそのハードを開けたらチャンスはあるかも知れない。 で、その装置、2,500円位で購入。 昨日試したが、“Xにアクセスできません。ファイルまたはディレクトリが壊れているため読み取ることができません”で、あきらめた。 新しいPCを買うか?
すると、突然回復の手順が画面上に出てきた。それに従いリカバリーCDを入れ、もう一枚入れ、更に指示に従って行くと、“Windows Vista”が立ち上がって来た!
Office 2007も立ち上げ、Internetもメールも接続出来た。 ただしデータは消えている。 しかたが無いさ。
ここ、2年のプライベートな記録や写真がかなり失われた。 メールの記録もアドレスも失われた。 仕事用に使っている別のデスプトップの中に多少のプライベート関連があるからそれを活用するしか無い。
数日前に今年春から使っている外付けの“I.O”のHDDも壊れてデータが失われた。 これもHDDを取り出し上で使ったケーブル装置でやったがダメでした。
2年前から使っているHDDは依然使っているので、それを継続使用する。
PCメーカー、HDDメーカー、USBメーカー、SDカードメーカー、あるいは携帯電話メーカー等何れも何が有ってもデータが失われる事、失われたデータに関しては一切責任を持たない。
問題は自分では認識できない操作、或いは誤操作、単純な間違い、等の理由によってデータが一瞬で無くなってしまいます。
結論は、本当に必要なデータは書面で残して置くべき。
少し前だが村田製作所野洲工場に自然環境との取り組み方を工場の周辺に張り巡らされた回遊式公園を巡って見せてもらいました。沢山の木々と花が植えられて確実に工場のスペースの環境を向上させていました。
そのおり、TVで見た事のある村田製作くんを見せてもらいました。
製作くんは思ったよりも大型で、この日は平行台の上を走行する姿を見せてもらった。
走行する直前に顔がガクッと下がり視点を平行台にロックオンする姿が面白い。
これから益々成長してゆくのだろうな。
http://www.youtube.com/watch?v=DOnd-0KARMk&feature=player_profilepage
6日夜に仲間と集まって高津宮でお花見をした。
何か暗いなーと思ったら、ボンボリが無い。
普通ボンボリから流れ出るダイダイ色の光が花見の雰囲気を盛り上げる。
この公園の管理者が誰かわかりませんが、何処からか司令が来たのかな?
或いは本当に自粛してしまったのかな。
いかに大阪に住んで居る人達でも普段のようにハメを外して騒ぐような事は無いと思います。 それほど今回の震災は誰の心にも重くのしかかっています。
でも、花見まで自粛する事は全く無いと思う。
多くの世界の人は東北と大阪の位置関係は知っていません。
多分、世界の多くの人達はあの地震と津波の映像を見て日本全部がそうなったように感じて居ると思う。
だから、せめて花見位は派手に楽しむ姿を見せないと。
花見を自粛する等、こんな事を続けていれば本当に日本の経済は委縮してしまいます。
この日、夕方、布施で、ある仲間の送別会があったので前から気になっていた記念館に友人と行きたいと思った。
500円を支払い記念館に入る。
スロープを降りると正面に途轍もなく大きな書架が設置されている。
その蔵書の多さに圧倒される。しかし展示出来て居る量は半分の2万冊!
だが、そう、下の移動式踏み段の最上部から届く範囲と上の固定ブリッジ部から届く範囲が合わず、その間の本には手が触れられない。 司馬さんは、その部分の本を手にするには如何するの、と案内人に聞くと、ここは司馬さんが亡くなった後に出来た物ですから実際には使われていません。 そうか、そうだね。
そして作品の陳列。
見て居ると実は私は司馬さんの本と一緒に人生を、そして仕事を、歩き暮らして来たのだなーと、しみじみ思った。
1963年、私は大阪に来た。 勤務先は桜橋のサンケイビルの中。
私が、最初にヨーロッパ出張したのは1965年。
多分、その頃、「龍馬が行く」は私が読んだ最初の司馬作品だと思う。
それからヨーロッパ出張を繰り返していた私には、特に日本人のアイデンティティを探し求めていたから、戦国時代から明治にかけての人物を活写してくり広がる物語の中から日本の文化や教養を作品の中に探し貪り読んでいました。 出て来た本は次々と読む。 そして韃靼風雲録が最後となり終わった。
坂の上の雲が終わった後に司馬さんが集めた資料や考察を元に書かれた小さな本に“乃木将軍は、軍を戦略をもって指揮する能力が無くすり鉢形の203高地に3千、5千の兵をただ突撃させ無駄な命を捨てさせた”(表現は違います)ように書かれていた文を読み、漸く長年の謎が解け司馬さんに合って、“ありがとう”と言いたかった。 私の祖父は明治12年生まれで日露戦争に第3軍の一員として203高地戦に参加し、眉間に弾丸が当ったが助かった。向傷という事で後に金鵄勲章を貰った。 私は気が付いた時から、祖父と一緒に寝、そして祖父が旅をするときには必ず私が同行した。 祖父が203高地の戦いに参加した事も聞いた。
しかし、乃木将軍や203高地の戦がどのように行われたのかを聞いても、決して、一言も云わなかった。なぜだろうと不思議に思っていた。 そしてこれを読んで始めて私の祖父が何回も乃木将軍や203高地の事を聞いても、何一つ話してくれなかった理由が解った。
戦前、乃木さんは神様でした。 戦後も乃木さんを批判するような雰囲気ではなかったところで、司馬さんが書いてくれたのです。 ありがとう。
下記は昔、祖父が中国から持ち帰った書を表装して屏風にし何時も自分の背後に置いて生活していた。 それについての記述です。
http://bentenmok41.air-nifty.com/woolhorse/2005/03/post_5.html
私には漢詩は読めませんが漢字から戦の凄絶な感じが伝わってきます。
記念館を出て来て、同行した友人が、昔司馬さんがブラリと立ち寄った喫茶店が有ったが、今は無いと聞き残念に思ったが、目に飛び込んだこの小さな四つ角に、多分、司馬さんであれば入ったなと思われる喫茶店がありそこの入った。
マスターに聞くと、そうです、司馬さんは時々立ち寄りました、と。
それがこの写真です。
小坂の駅で友と別れ布施駅にゆく。
40分程の待ち時間の間、熱が無いのに汗がでる。 のどが痛い。 この時点で思いきって帰るべきであった。
駅から直ぐの店に入って送別会が始まった。
良くなるであろうとの思いに反し益々調子が下がる。
話の中に入って行けない。 食べ物の味がしない。 酒が旨くない。
汗は出続け気分も更に悪くなる。
周りの話しが皆、意味の無い話しに聞え、ついにごめん、帰えります、と、中座した。
漸く家に帰りついた。
調子は悪いが全て洗い流したく、風呂に入る。
今日は何と言う日だったのだ。
でも、思い出した、前半は司馬さんの思いに浸った素晴らしい時間が有った事を。
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