歴史

August 05, 2007

大阪歴史ウォーク

昨日(4日)、熱い中、JR森之宮駅を午後1時過ぎに総勢16名で出発して先ずは難波宮へ。

大化の改新645年それまでの首都飛鳥からここ難波に遷都し多分本格的な建築で造られた大極殿の基壇を復元してあります。(ネットで借りた写真です。)

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難波宮は奈良や京都の都より古いのです。

大阪城の大手門前を通り、天満の永田昆布店前の“八軒屋船着場跡”と御祓筋にある熊野街道の始点を見る。Hakenya_640_2

 その一つ西の座間神社行宮にある熊野本宮までの九十九王子、その第一王子といわれる“窪津王子”も見る。

昔、京の都人は、伏見港から30石船にのって八軒屋につき、窪津王子で旅の無事を祈願したのだろう。

そして今回のハイライト、適塾へ。

幕末の雰囲気をそのまま残す適塾は、そんなに大きくは無く、展示物も多いとは言えないが中に入っただけで雰囲気に包まれる空間。

このように質素な木造2階建ての塾からはやがて来る維新の人材を多数輩出しています。

Tekijyuku_640_2 Koan_640_2

教育とは勉強したいという情熱を持った人達が洪庵先生のような人に巡りあって火がつき明治の日本という国の基礎作りに携わる人材が出来る。

金や設備の問題では無く、勉強する情熱と良い先生がおれば良い教育が出来るのだろうなーと思う。 そういう事を感じさせる場所です。

となりの愛玉幼稚園は夏休みで門が閉じていたが、明治の木造建築を未だに使っている一番古い幼稚園のようです。

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梅新南東角の地下にある大阪で最初のビアホールが当クラブの夏祭り会場です。 飲み参加だけの人も加わり総勢20人が貸し切りの部屋で盛り上がりました。 当然ながら大量の汗を出した後の生ビールは、、言葉不要。

このような状態で飲むと何処で飲んでも同じ状態になりますね。

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ただ、昨年と雰囲気が変わっている。 昨年あったステージが無い!

世話役のTさんが5時15分で予約していたが中ノ島から電話で、到着が早くなると連絡してあるのに、入り口のフロントで“準備しているから少し待て”と、意味の無い待ち時間を作られた。

敷居が高くなり従業員が普通になり(前はもっと親密感があった)本来の良い所が見えなくなった。

Yukoさんが居た頃のあの雰囲気は最早夢の中なんです

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June 30, 2007

役行者と諏訪明神

本山寺の本堂右手にフッと見ると小さな神社がある。

諏訪明神と書いてある。

なぜこんな所にあるのだろう。

そして本堂から一段降りた場所に水場がある。

そこに、“今より1300年前、信州の諏訪明神に祈して湧きだした霊泉です”と書いてある。

役行者と諏訪明神、今まで関連付ける話は全く無い。

しかし、此処で出会ったのかなー

Suwa_myoujin Seijyousui

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June 28, 2007

役行者の縁

ポンポン山からの帰路、本山寺に立ち寄る。 下り道故、裏から入る。

この寺は宝亀年間(770年頃)に役行者が開山。 ここに有る重文の毘沙門天立像は役行者の自作と伝えられている!

むき出しの木彫りが立派な本堂である。

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中の門は秀頼が1603年に伏見桃山城から移設したと伝えられている。

Sanmon_1

出口(つまり入り口)近くに見慣れない門があり注連縄が垂れている。

これは勧請掛といい、毎年12月25日にシキミ(樒)を束ねて12筋の注連縄とする伝統行事があるそうです。

Shimenawa_1 Shimenawa_2 Koromogake

暫く歩くと“行者衣掛之松”の枯れた松が収まった小屋がありました。 

更に下ると同じ頃、矢張り役行者によって開山された神峰山寺(かぶざんじ)がある。

この境内を見たかったのだが、先頭を歩く人達は、そんなものには興味が無く通り過ぎて行ってしまった。 残念!せめて境内に入りたかったのに。

歴史や神社仏閣には殆ど興味が無い人と有る人と、グループ行動の弱点はここにあるが、一人で行くか、興味の有る人と行くか、フーム

この寺の境内には開山堂があり役の行者が祭られているだけに見れなかったのは残念。

Jinpuzanji Ikadagake

また、この寺の門近くに行者因縁の“筏掛石”が祭られている。

このように、本山寺と神峰山寺は両方共に役行者が開山されたのです。

大峰以来継続する役行者の縁である。

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May 09, 2007

自然と歴史

この写真に写っている風景は天正7年(1579年)と殆ど変わらないと思う。

この年、この写真の平地には光秀の丹波攻めの兵隊で満ち溢れやがて、その8月に黒井の赤井氏および八上の波多野氏共滅ぼされる。

勝者光秀も信長も3年後にはこの世にいない。

Godai_800

欲望や名誉、騙し、騙され、歴史が作られ移ってゆく。

自然にとってはそんな人間の歴史等どうでも良い事。

その証拠に、ほら、430年過ぎても景色は変わらないよ。

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三尾山―パート2

この風景を見ると思い出す。

黒井城址から五大山へ行く道が解らず下山し、翌日、別のルートで五大山―愛宕山―鷹取山―五台山と歩いた。

その3年後に、逆ルートで五台山から黒井城址まで縦走完成した。

Godai_renzan 

黒井城には赤井直正が、そしてこの写真の背後、今の篠山市の方面には波多野氏が八上城に立て篭もり光秀の丹波攻めを十数回防いだといわれる。

この三尾城は黒井城の直正の弟、直信が守っていたが天正6年(1578年)落城したと言われている。 氷上丹波連合にとっては、この三尾城を失ったのは大きな痛手でと思われ、その翌年、天正7年の8月に黒井城の直正と八上城の波多野氏はついに光秀に破れ、丹波の地が信長の領土となった。

それにしても、私達が登る時のザックの重量は5-7kgですが山頂近くになると急坂になり、苦しくなる。

当時の兵士は多分2-30kgの装備をつけて登り下り、そして戦闘をしていたのだから凄い体力があったのだなと、何時も思う。

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April 05, 2006

ヤマト

4月2日、当初は予定していなかったヤマトを観る。

もちろん、いま話題の「男たちの大和」ロケに使った前半分実物大の大きなセットです。

当然だとは思いましたが、艦体を触ると木製でした。 その塗装技術は見事でいくら近くにいっても鋼鉄に見える。

甲板を歩いて艦首まで行くとさすがにその大きさを実感する。

Yamato_head Yamato

それと同時に何故こんな大きなものを作ってしまったのか?

軍拡時代の当時、大きい事は良かったのか?

大和が完成したから戦場に出航しなくてはいけなかったのか?

出港したら米空軍機の餌食となる事は解っていたのに。

つまり、最早不要と解っていながら作る広大なダム(一度、岐阜の徳山ダムの建設現場近くを通ったが、その大きさはヤマトの大きさ等比較も出来ないくらい大きい)を作り続ける国土省(所謂、官僚)のように現代も“解っちゃいるけど止められない”が継続している訳ですね。

当初3月31日までの予定を延長して5月7日まで展示公開するようで、既に数十万(7-80万?)人の人たちが訪れたそうです。

訪問者を見ると年配者だけで無く結構若い男女も居ります。

なぜだろう?

私はこれを見ても映画を見る気にはなれない。

Yamato_bridge1 Yamato_bridge2 Jyuza

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April 04, 2006

江田島

4月1日、かなり昔からここに来たかったが漸く実現した。

門には海上自衛隊第一術科学校、幹部候補生学校と書いてある。

Gate

守衛所を入り案内人が殆ど同じ船できたグループを引き連れ構内を案内する。

海軍兵学校は1888年(明治21年)に築地からこの江田島に移転して来たそうです。

構内は綺麗に手入れされており気持ちの良い印象を得ました。

最初は大講堂に案内され1917年に御影石で出来た重厚な建物で数日後におこなわれる卒業式の準備が整っている。

Koudo_inside

幹部候補生学校の赤レンガは明治期に英国から輸入された物でいまでも鮮やかな赤を見せてくれる。 手入れが良く出来ているのだな。

学校の前に植えられている黒松は真っ直ぐ上の伸びている。 この学校の精神はなんでも真っ直ぐにと。

School

今回一番印象に残ったのは教育参考館の展示物である。

階段を上がった正面には東郷元帥の遺髪が納められいる。

展示の日清、日露戦争の資料や特に戦争の模様を書いた絵に興味がある。

昔、家にあった絵本で記憶にある決死で旅順港閉塞後、短艇で引き上げて来た模様や蔚山沖海戦、日本海海戦の模様を書いた絵には非常に親近感がある。

そして数々の死に行く若人の遺書は時間があればじっくり読みたい。

ここを出てきて私はこう思った。

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敗戦後、朝鮮戦争が始まり、日本に軍備をさせないと決めたアメリカの要請で軍備をはじめた(所謂、再軍備)から海上自衛隊も当初はすべて米軍流の装備、技術、指導方、を行ったはずである。

しかし、海上自衛隊は、東郷元帥を日本海軍の始祖と崇めておるように感じ、そして、いつの間にか旧海軍の精神を引継いでいるのではないのだろうか。

ここで勉学に励む幹部候補生が身近にある教育参考館の展示物を見れば当然その影響は大きく受けるであろう。

そうであれば、私の願いは、その精神は明治期の東郷元帥時代の精神であって、

後年の大和を作ったような精神で無い事を望む。

私自身は軍国主義者でも右翼でもありません。

ただ、自分の国は自分で守る事を当然と思っており、候補生の行進を見て胸が熱くなりました。

Students

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March 08, 2006

竹田城跡

3月5日、竹田城跡を訪問。

昔は城あとの事を城址(じょうし)と呼んでいたがここでは城跡(じょうせき)と言うようです。

数年前にここと対峙する朝来山の中腹から見た雲海に浮かぶ竹田城跡を見て、その

魅力にとらわれた。 以来2回訪問し今回は3回目である。

1443年(嘉吉3年)に山名氏領土の出石の出城として土塀で固めた山城ができた。

現在写真に見える石組みの城は1580年前後に作られたようです。

本丸を中心に南北に翼のように城郭がせり出している。

その後、戦には使われず、1600年、大火に見舞われ城は焼失して以後、廃城となる。

角川映画の”天と地と”で春日山城を模して石垣の上に城のセットを作ったそうです。

この城跡の真下にJR竹田駅(姫路駅から播但線)があり、そこから登山口があるのでアクセスが良く桜の時期は輝く事でしょう。

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March 22, 2005

璽霊山

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「二霊三嶮豈難
擧男子功名期
          克艱」
虜兵三千
          據比嶮固塁浚
          濠勢堅頑将軍
          視三解既決此
          敵不攮不生還
          三敗三勝色目
          若累屍築壁壁
          為殷四敗四勝
          倍胆気親冝飛
          弾九日間五敗
          六勝慮兵走聞
          壌天子師茲班
          君不見「鐵血覆
          山山形改萬人
          斉仰璽霊山」

こんな屏風が田舎の家に有った。その写真です。(下線の字は当て字)
ほのぼのさんのブログページ「大凡人」 に
3月10日の旧陸軍記念日を思い出すべく奉天会議の写真が出ていました。
それでほのぼのさんに、私の祖父が203高地の戦いに参加したのち、
この屏風に記された詩を中国人に書かせ帰国した事を書きました。
漸く探した写真をスキャナーで読み込んだのが添付写真です。
それで少し調べた所、下記の疑問が出て来ました。
  1.ネットで紹介されているこの詩は殆ど4行(「」内
    の斜文字部)で“中抜”である事。
  2.紹介されている4行の“中抜”の詩は乃木さんが
    明治41年(1908年)初夏に旅順戦跡を
    訪ねた折。と書いてある。
  3.屏風には“光緒三十三年”つまり1907年と書い
    てある。
  4.屏風の詩の最初は“二霊三”とあり最後に“璽霊
    山”となる。
  5.間散居士とは誰だろう?
  6.祖父は戦が終わって中国人に書かせたといって
    いたが(1907年)、乃木さんが作ったのは
    1908年。
  7.桂月とは8月あるいは8月の季語との事。 ひょっ
    としたら書いたのは日本人?
祖父が嘘を言ってたとは思われないが、約100年前の事で調べようも無い。
漢詩など殆ど解らぬ私ですが、中抜きの部分には203高地の戦がいかに過酷であったかが感じ取れますね。 だからこの詩は全部を読んでこそ実感が出てくると思う。
そして
  第8の疑問は
  何故中抜き部分が紹介されていないのか?

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