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April 04, 2011

司馬遼太郎記念館 040311

この日、夕方、布施で、ある仲間の送別会があったので前から気になっていた記念館に友人と行きたいと思った。

500円を支払い記念館に入る。

スロープを降りると正面に途轍もなく大きな書架が設置されている。

その蔵書の多さに圧倒される。しかし展示出来て居る量は半分の2万冊!

だが、そう、下の移動式踏み段の最上部から届く範囲と上の固定ブリッジ部から届く範囲が合わず、その間の本には手が触れられない。 司馬さんは、その部分の本を手にするには如何するの、と案内人に聞くと、ここは司馬さんが亡くなった後に出来た物ですから実際には使われていません。 そうか、そうだね。

そして作品の陳列。

見て居ると実は私は司馬さんの本と一緒に人生を、そして仕事を、歩き暮らして来たのだなーと、しみじみ思った。

1963年、私は大阪に来た。 勤務先は桜橋のサンケイビルの中。

私が、最初にヨーロッパ出張したのは1965年。

多分、その頃、「龍馬が行く」は私が読んだ最初の司馬作品だと思う。

それからヨーロッパ出張を繰り返していた私には、特に日本人のアイデンティティを探し求めていたから、戦国時代から明治にかけての人物を活写してくり広がる物語の中から日本の文化や教養を作品の中に探し貪り読んでいました。 出て来た本は次々と読む。 そして韃靼風雲録が最後となり終わった。

坂の上の雲が終わった後に司馬さんが集めた資料や考察を元に書かれた小さな本に“乃木将軍は、軍を戦略をもって指揮する能力が無くすり鉢形の203高地に3千、5千の兵をただ突撃させ無駄な命を捨てさせた”(表現は違います)ように書かれていた文を読み、漸く長年の謎が解け司馬さんに合って、“ありがとう”と言いたかった。  私の祖父は明治12年生まれで日露戦争に第3軍の一員として203高地戦に参加し、眉間に弾丸が当ったが助かった。向傷という事で後に金鵄勲章を貰った。 私は気が付いた時から、祖父と一緒に寝、そして祖父が旅をするときには必ず私が同行した。 祖父が203高地の戦いに参加した事も聞いた。  

しかし、乃木将軍や203高地の戦がどのように行われたのかを聞いても、決して、一言も云わなかった。なぜだろうと不思議に思っていた。 そしてこれを読んで始めて私の祖父が何回も乃木将軍や203高地の事を聞いても、何一つ話してくれなかった理由が解った。

戦前、乃木さんは神様でした。 戦後も乃木さんを批判するような雰囲気ではなかったところで、司馬さんが書いてくれたのです。 ありがとう。

下記は昔、祖父が中国から持ち帰った書を表装して屏風にし何時も自分の背後に置いて生活していた。 それについての記述です。

http://bentenmok41.air-nifty.com/woolhorse/2005/03/post_5.html

私には漢詩は読めませんが漢字から戦の凄絶な感じが伝わってきます。

記念館を出て来て、同行した友人が、昔司馬さんがブラリと立ち寄った喫茶店が有ったが、今は無いと聞き残念に思ったが、目に飛び込んだこの小さな四つ角に、多分、司馬さんであれば入ったなと思われる喫茶店がありそこの入った。

マスターに聞くと、そうです、司馬さんは時々立ち寄りました、と。

それがこの写真です。

Photo

Photo_2

小坂の駅で友と別れ布施駅にゆく。

40分程の待ち時間の間、熱が無いのに汗がでる。 のどが痛い。 この時点で思いきって帰るべきであった。

駅から直ぐの店に入って送別会が始まった。

良くなるであろうとの思いに反し益々調子が下がる。

話の中に入って行けない。 食べ物の味がしない。 酒が旨くない。

汗は出続け気分も更に悪くなる。

周りの話しが皆、意味の無い話しに聞え、ついにごめん、帰えります、と、中座した。

漸く家に帰りついた。

調子は悪いが全て洗い流したく、風呂に入る。

今日は何と言う日だったのだ。

でも、思い出した、前半は司馬さんの思いに浸った素晴らしい時間が有った事を。

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