堺歩き―番外:堺事件
確か司馬遼太郎が坂の上の雲を書いた後に出版した本でこの事件の事を始めて知りました。 今回の堺歩きで是非妙国寺へ行きたかったのです。
改めてこの事件の顛末を知ると:
* 兵力が無い時には、正当と思われない賠償を課される。
* 先端の兵士同士では、ほんのチョットした行き違いで思わぬ展開がある
* 正当と思われぬ藩命(国命)によって切腹させられた土佐藩士の無念さ。
150年程前の事であるが、現在の自衛隊海外派兵における自衛隊員の曖昧な立場はこのような事件が起こればどうなるのだろう。隊員はその場で正等と思われる対応をして悪い結果が出た場合、責任はその場にいた隊員に負わせ、組織、特に上部組織の幹部が責任を取る事は決してないであろう。
堺事件:以下Wikipediaからのコピーをご覧下さい。 (慶応4年は鳥羽伏見の戦があり東軍が負け、新政府が発足して一月もたたない時期です。)
攘夷論のいまだおさまらぬ慶応4年2月15日(1868年3月8日)、フランス領事一行は大阪から陸路、堺に入ろうとした。外国事務局からその通報の無かった警備の土佐藩兵はこれを阻み、中途で引き返させた。
同日夕刻、領事一行を迎えるべくフランス海軍のコルベット艦デュプレクス(Duplex)号は堺港に入り、士官以下数十名の水兵が上陸、市内を徘徊した。土佐藩軍艦府は、警備の藩兵に取締を命じ、帰艦を諭示させたが、言葉が通じず、混雑もあって、水兵側は土佐の隊旗を倒伏、逃亡しようとした。このため、土佐藩側はこれを逮捕しようとして捕らえるのではなく、咄嗟に発砲し、フランス人11人を殺傷または、海に落として溺死させた。(土佐藩側では)フランス人が迷惑不遜行為に及んだとされる。遺体は、日本側官憲により16日に引き渡しを終えた。
フランス公使レオン・ロッシュは2月19日、在阪各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は和泉国・摂津国の間にあったから、明治政府は憂慮し、イギリス公使ハリー・パークスに調停を求めたが失敗、22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと暴行者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざる得なかったものとされるが、捕縛ではなく発砲による殺傷を目的とした野蛮な対応に外国は震撼せしめた。
フランス公使は20名の切腹を要求し、事件に関わった29名の者が現在の大阪府大阪市西区にある土佐稲荷神社で籤を引いて切腹する者を決めた。2月23日(3月16日)、大阪裁判所の宣告により堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に次々と投げつけるという行為を行った。その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長プティ・トゥアール(Petit Thouars)は、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代才助に中止を要請し、結果として9人が助命された。一説に、暮色四辺にたちこめ、ついに日暮れるに至り、軍艦長は帰途における襲撃を恐れたからであるという。本人の日誌によれば、侍への同情も感じながら、この形での処刑はフランス側が望むように戒めになるところか、逆に侍が英雄視されると理解し、中断させたそうである。
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