« February 2009 | Main | April 2009 »

March 2009

March 30, 2009

知林ヶ島 031509

指宿の少し北側に知林ヶ島があります。

知林はチリンと読みます。 語感が良いですね。

15日の早朝、見学に行きました。

干潮であれば、こちらから知林ヶ島と陸続きになり、歩いて渡れるそうです。

この時は残念ながら早すぎました。

しかし瀬がある処で海水が二手に分かれているから、はっきりと見えます。

Photo 

宿に帰る道で丁度朝日が山川湾に昇る瞬間が見えました。

Photo_2

| | Comments (2)

March 25, 2009

開聞岳 031509

今まで読んできた本からの記憶で開聞岳はどうしても登りたい山の一つであった。 

登山口からはゆっくりした登山道は林の中を登る。

突然中腹の開けた場所から足下に長崎鼻が見える。 天気は最高。

更に西方には枕崎に向けて湾曲した海岸線が綺麗に見えます。

南シナ海の波が海岸にユックリ打ち寄せる。

Photo_2 Photo_3

岩場を通って狭い山頂の岩上に立つ。

北側には錦江湾の向こうに桜島が薄っすらと見えました。

そして昔、映画で(どの映画か忘れました)見た知覧から飛び立った、あるいは帰還した飛行機の窓から眺める開門岳の姿が記憶の中から蘇った。

この円錐形の山は独立峰だから遠方からもはっきり見える事を実感できました。

登山口への行きも帰りも急いでいるので開聞岳の姿を写真に撮る時間は無く、ようやく山川港から出たフェリーの上からの撮影。

少し遠いのですが心に残る姿が見えました。

Photo_4 Photo_5

| | Comments (2)

開聞岳―初めての九州の山

3月13,14,15日で九州最南端、開聞岳に登りました。

いままでそれなりに多くの山登りをしてきましたが九州の山は初めて。

でも、12名でのグループが3台の車に便乗したこのスケジュールは結構キツイ。

13日夕方に大阪南港から乗船した大型フェリーは大阪湾から太平洋に出て高知沖を

航行して九州の志布志にいたる。

でもこの日は発達した低気圧と行き違い、かなりの横揺れ、通路を歩くと壁と壁のあいだで体が飛ばされました。結局約2時間半遅れで志布志に到着。

志布志からは陸路、鹿屋を通り桜島からフェリーで鹿児島、そして湾沿いを南下して指宿の先、山川の旅館。

14日、登り2時間半、下り2時間と組んだスケジュールはたっぷりかかり、下山すぐに山川港に走りフェリーに乗る。

ここから対岸の根占(ねじめ)に渡り、陸路、鹿屋から志布志のフェリーにほぼ最終乗船で間に合った。

翌日、朝7時過ぎに大阪南港帰着。

メンバーの半数位はそこから夫々の職場に急ぎました。

Photo

| | Comments (2)

March 10, 2009

新ポータブル織りシステム 試作

クラブ織では4-5人のメンバーが遂に小型手機(てばた)を完成させた。

しかし移動性が悪いので皆が集まっての例会に持ち込む事が難しい。

もっと移動性の良い物が欲しい。

そして写真のような試作品を作った。

Photo Photo_2

長さ:45cm、幅:27.5cm、高さ:13cm。

先日の例会で織りテストをすると好評!

更にポータブル性を良くする為に目下改造中です。

| | Comments (2)

水琴窟

先日歩いた堺の南宗寺、方丈の奥に水琴窟がありました。 この水琴窟の水音は金属的な音がします。 窟に差し込まれた竹筒を通して聞こえてきます。

| | Comments (4)

March 05, 2009

京都大原三千院

京都大原三千院Photo とくると、どうしてもデュークの“恋に破れた女が一人”の歌詞に入って行く。 

このイメージは今後とも変わらないと思う。

そんな場所でシニア男5人が民宿泊まりで昔話。

30-40年前に一緒の会社で仕事をしていた同士。

なぜか晩飯はシシ鍋、それも丹波産の猪で臭みが無く旨かった。

そして酒。

翌朝、歩いて5分の三千院、人が居ない!

ユックリ見学できる。

曇り空の下、雪も無く、くすんだ景色はしかし寺院全般に敷かれたコケのやさしいグリーンが補ってくれた。

Photo_2                         Photo_3                           Photo_4

| | Comments (2)

March 03, 2009

庭の花たち

何時も間にか庭の花が咲き出しました。

寒あやめはすでに2週間前から咲きだした。

サクランボの木にも花がつき満開に近いですね。

今年も食べさせて貰えそうです。

椿も咲いています。

花が咲くと家が明るくなりますね。

Photo Photo_2          Photo_3          Photo_4

| | Comments (6)

March 02, 2009

堺歩き―番外:堺事件

確か司馬遼太郎が坂の上の雲を書いた後に出版した本でこの事件の事を始めて知りました。 今回の堺歩きで是非妙国寺へ行きたかったのです。

改めてこの事件の顛末を知ると:

    兵力が無い時には、正当と思われない賠償を課される。

    先端の兵士同士では、ほんのチョットした行き違いで思わぬ展開がある

    正当と思われぬ藩命(国命)によって切腹させられた土佐藩士の無念さ。

150年程前の事であるが、現在の自衛隊海外派兵における自衛隊員の曖昧な立場はこのような事件が起こればどうなるのだろう。隊員はその場で正等と思われる対応をして悪い結果が出た場合、責任はその場にいた隊員に負わせ、組織、特に上部組織の幹部が責任を取る事は決してないであろう。

Photo_2 Photo             Photo_3

堺事件:以下Wikipediaからのコピーをご覧下さい。 (慶応4年は鳥羽伏見の戦があり東軍が負け、新政府が発足して一月もたたない時期です。)

攘夷論のいまだおさまらぬ慶応4年2月15日(1868年3月8日)、フランス領事一行は大阪から陸路、堺に入ろうとした。外国事務局からその通報の無かった警備の土佐藩兵はこれを阻み、中途で引き返させた。

同日夕刻、領事一行を迎えるべくフランス海軍のコルベット艦デュプレクス(Duplex)号は堺港に入り、士官以下数十名の水兵が上陸、市内を徘徊した。土佐藩軍艦府は、警備の藩兵に取締を命じ、帰艦を諭示させたが、言葉が通じず、混雑もあって、水兵側は土佐の隊旗を倒伏、逃亡しようとした。このため、土佐藩側はこれを逮捕しようとして捕らえるのではなく、咄嗟に発砲し、フランス人11人を殺傷または、海に落として溺死させた。(土佐藩側では)フランス人が迷惑不遜行為に及んだとされる。遺体は、日本側官憲により16日に引き渡しを終えた。

フランス公使レオン・ロッシュは2月19日、在阪各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は和泉国・摂津国の間にあったから、明治政府は憂慮し、イギリス公使ハリー・パークスに調停を求めたが失敗、22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと暴行者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざる得なかったものとされるが、捕縛ではなく発砲による殺傷を目的とした野蛮な対応に外国は震撼せしめた。

フランス公使は20名の切腹を要求し、事件に関わった29名の者が現在の大阪府大阪市西区にある土佐稲荷神社で籤を引いて切腹する者を決めた。223316)、大阪裁判所の宣告により堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に次々と投げつけるという行為を行った。その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長プティ・トゥアールPetit Thouars)は、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代才助に中止を要請し、結果として9人が助命された。一説に、暮色四辺にたちこめ、ついに日暮れるに至り、軍艦長は帰途における襲撃を恐れたからであるという。本人の日誌によれば、侍への同情も感じながら、この形での処刑はフランス側が望むように戒めになるところか、逆に侍が英雄視されると理解し、中断させたそうである。

| | Comments (0)

« February 2009 | Main | April 2009 »