璽霊山
「二霊三嶮豈難
擧男子功名期
克艱」虜兵三千
據比嶮固塁浚
濠勢堅頑将軍
視三解既決此
敵不攮不生還
三敗三勝色目
若累屍築壁壁
為殷四敗四勝
倍胆気親冝飛
弾九日間五敗
六勝慮兵走聞
壌天子師茲班
君不見「鐵血覆
山山形改萬人
斉仰璽霊山」
こんな屏風が田舎の家に有った。その写真です。(下線の字は当て字)
ほのぼのさんのブログページ「大凡人」 に
3月10日の旧陸軍記念日を思い出すべく奉天会議の写真が出ていました。
それでほのぼのさんに、私の祖父が203高地の戦いに参加したのち、
この屏風に記された詩を中国人に書かせ帰国した事を書きました。
漸く探した写真をスキャナーで読み込んだのが添付写真です。
それで少し調べた所、下記の疑問が出て来ました。
1.ネットで紹介されているこの詩は殆ど4行(「」内
の斜文字部)で“中抜”である事。
2.紹介されている4行の“中抜”の詩は乃木さんが
明治41年(1908年)初夏に旅順戦跡を
訪ねた折。と書いてある。
3.屏風には“光緒三十三年”つまり1907年と書い
てある。
4.屏風の詩の最初は“二霊三”とあり最後に“璽霊
山”となる。
5.間散居士とは誰だろう?
6.祖父は戦が終わって中国人に書かせたといって
いたが(1907年)、乃木さんが作ったのは
1908年。
7.桂月とは8月あるいは8月の季語との事。 ひょっ
としたら書いたのは日本人?
祖父が嘘を言ってたとは思われないが、約100年前の事で調べようも無い。
漢詩など殆ど解らぬ私ですが、中抜きの部分には203高地の戦がいかに過酷であったかが感じ取れますね。 だからこの詩は全部を読んでこそ実感が出てくると思う。
そして
第8の疑問は
何故中抜き部分が紹介されていないのか?
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