January 27, 2012

お水送り 01272012

 

1月14日に仲間と若狭でカニを食べに一泊旅行に出た。

昔から気になっていた奈良二月堂のお水取りに係る場所を見ようと若狭の神宮寺に立ち寄り本堂の中で神宮寺の成り立ちを聞いた。

お水送りの儀式は3月2日に神宮寺境内にある閼伽井戸からお水を汲み、数キロ離れた鵜の瀬に送り、瀬の下に有るという洞窟から奈良二月堂の若狭井に送るのだそうです。その水は3月13日未明に到着し井戸からお香水を取り上げるのが二月堂のお水取り。

なるほど、これで若狭のお水送りは良く理解できました。

 

また神宮寺だから当然なのだろうが、僧侶に促され仏様の前で柏手を打った。

だが何か不自然な感じである。

しかし、その僧侶は本来神社、寺は古来より“神宮寺”で、仏像の前で柏手を打つ事は当然なことであると。

 

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December 24, 2011

小金塚古墳

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熊野古道完歩の途中、小金塚古墳に立ち寄った。

ネットの情報を頼りに探すが通常の地図にはハッキリと表示されていない。

私たちは西側からアプローチを開始し舗装が無くなり地道となり畑のあぜ道を経て道は消滅したので直登すべく数段の畑を乗り越え草と藪をかき分け漸く頂上にでると小金塚と彫られた石塔があった。

ネットではこのように説明されている。

「中央槨の棺外から出土した画文帯四神四獣鏡には、景初三年(239年)の銘があり、魏志倭人伝における邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡百枚を贈ったとの記述との関連性が考古学者の一部で指摘されている。」

帰りに反対側の道伝い(これが本来の上り道だったのです)に降りるとそこには「入ってはいけない」と書いた看板が押し曲げられていた。

ここは入ったらいけない場所だったのだ。

ごめん!

 

 

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December 22, 2011

熊野古道完歩 第三回 120911

12月9日

今回は南海の堺東駅が出発点。

前回通った反正天皇陵の横を通ってけやき通りに出て仁徳天皇陵に向う。

陵の手前に、竹内街道があり更に西高野街道を渡って仁徳天皇陵の堀沿いに正面に向かう。

ここから南宗寺へ向かうが私はかって何回も通った。

さて堺市内の熊野街道の位置は堺の中心部である浅香かあたりからこの南宗寺まで不明なようです。今回はネットで拾った案内を参考に歩いた。

南宗寺の南西に山ノ口橋がありそこから堺市の熊野古道が始まり最初のポイント石津神社は日本でも最古の戎神社だそうです。

石津川を渡って大鳥神社を目指す。

大鳥神社は大きい! 大和武尊命を祭っておりその像がある。

拝殿の後ろの本殿は屋根の一部しか見えません。

そして熊野古道は鳳商店街のアーケードを通る。 熊野古道唯一のアーケードのようです。

やがて堺市市境を出て高石市に入り、人を探して漸く畑の中のおばさんに小金塚古墳の場所を聞くとあそこに見える丘の上と解った。

舗装が無くなり地道となり畑のあぜ道を経て段上の畑を乗り越え草をかき分け漸く頂上にでると小金塚と掘られた石塔がある。

そして今回はJR北信太駅を終了点として終わった。

みなさんの万歩計からすると今日の行程は約15km。

出発の堺東駅から北信太駅まで約6時間。

途中、にわか雨に会いながらも諦めず良く歩きました。

 

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December 15, 2011

書写山園教寺 11232011

姫路の郊外にある書写山は私がこれから行きたい場所の上位に位置していた。

371mの標高だから歩いて登っても心地良い。

この発音し難く、奇妙な名前の山の由来を食堂の担当者に聞くと、元は素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」と言われ、性空入山以前よりその地には祠が祀られていたと言われる。山号の由来はこの「素盞」からのものと言われ、写経が盛んに行われていたので書写になったのでは無いかと説明頂いた。

舞台と組み合わさった紅葉が美しい。

天気もよいので大勢の観光客が居る。

食堂(じきどう)の佇まい、食堂から外を見る時の光の作用による光景が印象に残る。 食堂には写経する人の為に写経机が並べられており、緊張の雰囲気がある。

この場所は深く記憶に残る場所です。

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December 06, 2011

ブータン国王 120611

最初に認識したのは昭和天皇の大喪の礼の中継テレビで見た民族衣装「ゴ」を着て出席された第四代国王 ジグミ シンゲ ワンチュク国王であった。

どてらに似た服装で異例な服装であるがその若い国王の堂々とした立居振舞に感服して、是非ブータンという国に行って見たいと思った。

10年程前にビジネス繋がりのグループでタイ人がブータンに行く計画を立て、参加を決めえいたが理由は覚えていないが直前にキャンセルになってしまった。

 

今回の第五代国王ジグミ ケサル ナムゲル ワンチュクの訪日のTV中継で見る聡明な顔つき、挨拶する時の、真摯さに満ちた立居振舞は殆どの日本人の心に沁み込んだと思います。

今、日本に来る外国の要人、王族、の誰を見ても心に響く真摯さを感じる事は無い。

このような国王を持つブータンには是非行って見たいと改めて感じた。

ブータンの国旗:

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December 05, 2011

熊野古道完歩 P2 120511 

11月13日、パート2の朝である。

所がこの日の計画を完全に忘れていた!

天王寺駅に9時集合は私が決めた事なのに。

9時半に電話がかかってきた。

私の頭はガーン、、真っ白になった。 「ごめん、1時間待って」

オットリ刀で駆けつける。 こんな事は今まで無かったのに!

待ちぼうけの皆さんにはただ平謝りです。

10時半の出発となりました。

最初は阿倍清明神社。 古道とは直接関係無いが重要な神社です。

安倍清明はここ阿倍野で生まれたといわれています。

そして直ぐ隣の阿倍王子神社。 ここは大阪で唯一の現存する王子です。

境内にあった王子の説明文。

私たちの今日の行程は大阪と堺を結ぶ路面電車の阪堺線に沿って進みます。

久しぶりに走る電車を見ると、同じ路面を柵も無しで走行する電車には迫力を感じます。

次は住吉さんの広大な敷地に入り訪ね訪ねて窪津王子跡を見つけました。

更に南下して大阪市の南端に近つくと明治18年当時と表示された路面版があった。 そこに遠里小野(オリオノ)地区がある。

1704年に大和川の洪水に悩まされていた事を避けるべく大和川を付け替え今の位置になったそうでその為に遠里小野地区は分断され今でも大阪市と堺市両方に遠里小野の地名がのこる。

大和川を渡り更に刑務所の近くで境王子を見て堺東駅で今回の終点とした。

 

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November 30, 2011

「亡霊が眠る塚」111911

113日に京都の北山付近ハイキングに誘われた。

痛風や膝痛があるのを知っていながら声をかけてくれる友を大切にしなくてはいけない。

峠を過ぎて里山に入ったときにこのような看板を見つけた。

これを書いた人は:

*意味の無い落書きとして書いた?

*動物愛護でハンターに反対する人?

*ハンターがウルサイいから嫌がらせに書いた?

*ここを通る人を怖がらせる為?

*本当に亡霊がいるから心配して書いた?

色々想像しました。

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November 06, 2011

真田庵 102911

九度山駅から慈尊院へゆく途中に真田庵がある。

長年に亘りここを訪れたいと思っていた場所です。

真田三代記や真田物の小説は殆ど読んだから関ヶ原の後、雪村と共にここに蟄居させられた昌幸の無念さを思う。

境内に昌幸のお墓があり篤く手を合わせる。 1600年の関ヶ原後に家康は真田親子を九度山に蟄居させ、昌幸は1611年にここで亡くなった。 

墓は信州の松代、上田にもあるそうです。

境内には“炬燵して 語れ真田の 冬の陣”の蕪村の句が石塔に掘られている。

そしてもう一句“かくれ住んで 花に真田が 謡かな”

蕪村は1716年生まれで1784年没だから昌幸没後150年頃に詠んだのかな。 ここに来て詠んだようです。

蕪村は大阪に生まれた故に大阪城を守り最後まで戦った真田雪村の特に冬の陣の活躍を150年過ぎても大阪で語られて居たのであろう話が気になってこの句を詠んだのかも知れません。

 

初めて来た九度山という所は高野山の上り口でもありそれなりに賑わっており思っていたよりも開けた場所でなんだか安心(?)しました。 

それと上田城から見た千曲川と真田庵(もしここに真田親子が住んでいたのであれば)から見える紀ノ川と似ているような気がする。

 

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November 04, 2011

九度山町石道 102911

こんな道が有る事は知らなかった。 だから今回の立案者には感謝。

九度山町の慈尊院から高野山壇上伽藍大塔まで22kmに180基の町石と呼ばれる石柱が1町約109m置きに建っています。 今日は九度山の駅で下車して慈尊院の石段中段にある180番の石柱を見て出発です。

179,178,177と番号が若くなります。

これが鎌倉時代1265年に建立が始まり1285年に完成したと言う事です。

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丁度九度山のブレンド柿の収穫期で農家の人たちが忙しく収穫していた。

その中に規格外だから“持って行き”と美味しい柿を頂いた。

途中で農家の人たちと交流し時間が消費され結局136町石の六本松であきらめ、上古沢駅を目指す。  結構な下り坂を過ぎると谷の向こうの同じ高さの所に上古沢駅の駅が見えてきた。

村落を通って車道に出ると今度は上り道。 途轍も無い大変な登り道となる。

そして苦労の末、上古沢駅到着。

駅長さんの苦労話を聞いて休んだ。 暫く落ち着いて見回すとこの駅の素晴らしさが見えてきた。 眺望が良い。普通の駅に付き物の車が居ない、だから静かなのです。

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October 31, 2011

従兄弟会 101911

今年は第三回目で私が企画し大阪で行われた。

最初はグランド花月で前から2列目、少々首が痛かったが思いっきり笑った。

しかし、昔コンビで鳴らしたキヨシには話の面白みが無く、八方にも旨さが感じられない。 ほかの若手に伸びを見た。

二日目適塾はから始まった。

私は三回目であるが今回初めて適塾の座敷や手洗い、蔵の配置が下諏訪の母方の実家そっくりである事に気が付いた。

この日は京都大原まで行き民宿に宿泊。

三日目の朝、三千院は残念ながら一番目の入場は逃したが座敷に座っても他の客が居らず朝の静寂と朝日が差し込む座敷や庭の様子を心地よく鑑賞できた。

朝の、まだ混み合わない内に鑑賞したいと言う目標は達成されて皆さん喜んで頂けたようです。

 

 

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October 23, 2011

旧陸軍墓地 100211

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古道歩きの途中で旧陸軍墓地に立ち寄った。

過去3回の歩きでもこの墓地を見た。

最初、三光神社の真田の抜け穴を見、三光神社裏の少公園で休憩して、そこから上に行くといきなり墓地でその雰囲気にビックリし、それ以来私が案内する歩きでは必ずここに来た。

今回は、墓地中ほどで若い女性が声をかけて来て、「納骨堂を見ますか?」

「へー、見られるのですか?」 見られると聞いて中に入ると年配の女性がおり 「中の納骨を見ますか?」と聞かれたのでハイと。

中には電燈が無いようで懐中電灯で照らしてくれたその先には小さな段に小さな骨壺(約10x15cm位)や位牌がぎっしりと置かれていた。

彼女たちや若い学生さん達は骨壺の包装に書かれている名前や所属、日時などを記録しているようです。

丁度この墓地を良く知っている中下さんが来たから詳しく聞いて下さいと紹介された中下さんは83歳の御高齢にも係らず非常にハッキリとした口調で、私たちのここで滞在できる時間を聞いたので約1時間と答えると、「では、それに合わせて案内します。最初はこの墓地に出来た最初の墓標を見せます。」

下田織之助と言う人の墓石で昔の墓石には記録が掘られており中下さんは非常な興味を持って山口県の周防大島を訪れたて彼が神社の神主である事が解った。

のちに彼の曾孫が作詞家の星野哲郎であったそうで、星野から中下さんに2回電話があり、必ず墓石を見に行くからと案内を頼まれたそうですが、二回目の電話から二か月後に星野さんは亡くなってしまったそうです。

通常戦地で戦死した人たちは皆、靖国神社にゆくが、ここの墓地に葬られているのは戦死ではなく病死、事故死等直接の戦死以外での死者だそうです。 それが西南戦争から日清、日露戦争の半ばまでをカバーしています。

ビックリした事は、病死者、縊死者、等等を陸軍がちゃんと葬っている事です。

かってこのような陸軍墓地が全国に80カ所あったが今は種々の事情で縮小され完全な形で残っているのは、この真田山だけです。

中下さんはこの墓地の墓石は殆ど覚えているのだそうです。

当然ながら墓石にはそれぞれストーリーが有り、皆さんにそれを知って欲しいと言われています。

中下さんからは沢山の墓石に纏わりお話を聞きました。  

墓石の品質が悪く表面がはがれて刻み込んだ文字が読めなくなります。 

私たちが中下さんに案内されている時も2人の学生が墓石の記録を書き写していました。

今、NPO法人 「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」が沢山の人に知ってもらい、さらに保存活動を強化する活動をしています。

詳しくは下記ホームページをご覧ください。

http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/

戦争の事、近代史の事、少しでも興味のある人は、是非ともこの墓地をご覧ください。

墓石に“縊死”などと書かれた記録がはげ落ちないうちに!

 

この「保存を考える会」では第四日曜日の午後1時半から1時間半、定期的に現地案内会を開催して居ます。 11月は中下さんが担当です。

最近、中下さん自身は「軍夫の墓」に興味を持って取り組んでいるので、特に

「大阪の軍夫」の資料を持っている方が居れば連絡を取りたいと言っていますので上記「保存を考える会」にご連絡下さい。

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October 14, 2011

熊野古道完歩 P1 100211

熊野古道の完歩を目指して第一回目の歩きを行った。

出発は、京阪天満駅斜め前の永田昆布店の前にある“八軒屋跡”の石碑。

ついで座間神社行宮に看板の説明だけの窪津王子跡。 これが最初の王子。

次いで南大江公園の一角にある狸穴神社のよこの説明で坂口「王子伝承地。

そして高津神社にある群戸王子推定地石柱。

本日最後は堀越神社の熊野第一王子の宮を見た。説明では第一王子窪津王子は当初八軒屋付近にあったが、そのご四天王寺の西門近くにあった熊野神社に祭られ、その後堀越神社に合祀されたと言う。

何れも不確かではあるが、兎に角今調べて解る王子、王子跡をたどって、次回は天王寺から堺に向かいます。

今日のルートは私自身3回目で何れも榎神社、空堀商店街、三光神社(真田の抜け穴)、旧陸軍墓地、近松門左衛門の墓、愛染さん、大江神社、藤原家隆の夕陽丘記念碑、安居神社(真田雪村の終焉地)を回りました。

 

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October 08, 2011

堺歩き 100111

マイスターの仲間と堺を歩いた。

JRの百舌鳥駅で集合。漢字3文字でモズと読む、と解っていても不思議だね。

当然最初は仁徳天皇陵だが最近は大仙御陵と言うようです。 つまりこの御陵に埋葬されている方が仁徳天皇かどうか解らなくなったそうです。

南宋寺は堺の町の中に大きな敷地を持ったお寺です。

私が一番興味のあるのは徳川家康の墓石である。

時間軸:

*1615年(元和元年) 大阪夏の陣 家康74歳

                     ここで死去(南宋寺由来書)

*1616年(元和2年) 4月に 家康死去75歳。

一般的に信じられている。

*1623年(元和9年) 7月 徳川秀忠 南宋寺訪問(南宋寺由来書)

*1623年(元和9年) 8月 徳川家光 南宋寺訪問(南宋寺由来書)

中国の史書にしても日本の日本書紀にしても権力者の都合で作られた物だから

徳川家の正史のように伝えられている歴史や史実もこの場合は家康の子孫の都合に良い解釈で書かれていると見て間違いないと思う。

だから意外と言い伝えの方が正しかったりする。

私には家康が死ぬまでの約1年は影武者が代役をしていた事と思う。

1616年と1623年の7年差は意味が有るのか? 

7周忌は数え方が違うかな?

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October 05, 2011

飛騨 番外 091911

宮川種蔵付近の民家には非常に特徴的な木組があります。

それを見ているとスイスのある地方の特徴的な家を思い出した。

スイス本社の私が働いて居る部門のマネージャーはFSと言う。 彼の出身地がアッペンツエル(Appenzell)と言うカントンでアッペンツエルの人たちは

背が低く、家の窓が小さい。 ところが我がマネージャーは190cmを超す巨漢であった。

ウェブで探して漸くアッペンツエルの写真を見つけました。

 

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飛騨 P4 091911

飛騨市の北にある宮川の種蔵は板倉と石積棚田で成っています。

田圃の面積を出来るだけ大きくする為には棚田の段の角度を急にすれば良い。

この為に此処の棚田の段は直立に近くその為に石積となっている。 城の野ずら積に似ている。

もう一つの特徴は当初種蔵と言われた板蔵で、米や穀物、野菜の種を入れる為の蔵で人が住む住居と距離をとり住居が火災にあっても離れている種蔵には延焼せず結果翌年の種が保存出来るわけです。

それと、この地区の真ん中には小山が有るがその上まで田圃がある。 この為に周りの山よりサイフォンで水を送っている。

それほどまでに昔の農民は米を作りたかったのです。

 

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