May 22, 2012

裸視のほぼ金環日食 05212012

 

足の怪我で動けず、家族に頼んでいた日食用グラスも忘れられ、また曇天の予想でほぼ諦めていた。 

 

ところが7時頃には朝日が差し込んできたので間接観察用のピンホール筒を急遽作って7時15分頃かテストしたが日光が無くなりテスト出来ず。

 

25-26分頃から太陽をそっと見ると、なんと雲の中に輪郭が!

 

慌ててカメラで撮影。

 

裸視で観察。

 

雲のお蔭で無事でした。

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May 08, 2012

熊野古道完歩会第七回 エピソード

日本最後の仇討場所
大阪と和歌山県の府県境から4-5m大阪に入った所にあります。
石板の説明のような状況だったようです。
私なりにウェブで調べると、
*仇をさがして大阪で苦難している事を知った坂本竜馬は勝海舟にたのみ仇討免状と諸国役人宛ての探索依頼状を発行してもらったそうです。
さて、紀州藩は何故自分の藩内でなく藩外で行うようにしたのであろう?
多分当時の大阪側は岸和田藩かな。 敵討ちをした検証はどちら側がしたのだ
ろうか、そしてその後の処置、遺体のかたずけはどちらの藩が行ったのだろうか?
当時の紀州藩(徳川家)と土佐藩は非常に仲がわるかったよね。だから藩の外
を提案したのかな。
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May 05, 2012

熊野古道完歩会 第七回 04302012

日時:2012年4月30日

家を出る時に玄関で左足の甲外側を打ち痛みが走るもそのまま継続。

JR山中渓駅を9時半に和歌山目指して出発。

道幅に対し車の交通量が多く危険を感じ地道を探したが無い。

県境のすぐ手前に“日本最後の仇討場”がある。 横の川を渡れば和歌山県です。

当時の紀州藩は領地を出た所で仇討を許したそうです。

今日の行程は全体に下りで比較的楽であるが私の足には良くないようです。

中山王子跡で仲間から湿布を貰って痛いカ所に貼り付けました。

和歌山に入って最初の集落、滝畑は昔の山里のような雰囲気があるます。

この辺りから“ゴミ処理場の建設反対”看板が頻繁に見えます。

“熊野古道を美しくしています”の看板も。

そして峠の不動尊の小さな社があります。 中には小さな石の不動尊がおりました。

やがて湯屋谷の集落にはいり山口王子跡を見、そして漸く住民と出会って小野小町の墓所を訪ねる。 その方は“ほんとうかどうかは知りませんが、あそこの人様の墓地の中ですから入れて貰って見てください。

そして山口神社の鳥居を過ぎたあたりでギブアップ。

今日の予定は布施屋まで16kmをここJR紀伊駅近くのほぼ10km地点で終了とさせてもらいました。

残念

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April 27, 2012

平家の、、 04232012

熊野古道歩きで岸和田近辺を歩いている時にこのような張り紙を見ました。
「平家の貸家、、、」 “ヘイケノカシヤ”と読んでから何かオカシイなと思った。
ヘイケの貸家って何だろう?
こんな所にヘイケの家?

そして今、漸く解った。
本当は平屋と書く所を平家と書いたのだ!

そういえば私の周りから平屋:ヒラヤが消えている。
だから平屋は死語になりつつあるのだろう。

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April 22, 2012

花々 04172012

今年は少し咲くのがおくれたけれども我が家の花たちは一斉に咲きだした。
一度に咲かなくても良いと思うが、そんな思いにお構いなし。

今年買った南高梅は実を一つつけた。
さくらんぼは沢山実が付いている。
小さな庭が大きな庭に見えます。
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April 04, 2012

四国の旅―P2 03252012

 ホテルから見る来島海峡の朝は静かです。
今日、最初の訪問地は来島海峡を渡った大島の北部にる村上水軍博物館でその前の船着き場から乗った観潮船が凄い。
私たちグループは40人で、多分船の定員も40人位か。
大島と伯方島の間にある能島、そして能城島が有ったと言われる小島を巡って
丁度観潮に良い10時頃で素晴らしい、激しい、潮流を楽しませてもらいました。 かなり強力なエンジンを搭載していたが船長の見事な舵さばきに拍手である。
大三島と生口島を繋ぐ多々羅大橋は徒歩で渡る。
風はきついが天気がよく気持ちの良いる気ができました。

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April 01, 2012

四国の旅―P1 03242012 

バスで別子銅山に向かい麓のマイントピアでバスを乗り換える。 これから上の東平(とうなる)までは道が狭いから普通の観光バスは通れない。
小型バスは急峻な山肌を縫うように登ってゆき東平に着く。
ここから貯蔵庫跡を見下ろすと東洋のマチュピチュ、えー! ちょっと違うよね。 山の山頂部を見ると樹氷状に雪が付いた木々が見える。 寒い。
マイントピアから鉱山電車ですこし行くと観光坑道がある。
実際に採掘に使った坑道では無い。
生野鉱山を見ているから迫力に欠ける。
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March 28, 2012

熊野古道完歩会 第六回 03202012

9時過ぎにJR新家駅を出発して前回終わった古道の四角から歩き始める。
最初に着いたのは樫井古戦場で大阪夏の陣の際、ここで東軍と西軍が対峙したが西軍の埴団衛門が抜け駆けして西軍の布陣を崩し負ける原因となったそうです。
次に訪れた海会寺跡は7世紀建立で法隆寺と同じ伽藍配置であったそうです。 回廊の柱跡に赤いレプリカが建てられていました。
厩戸王子跡は地元の人に聞いて田圃のあぜ道を通りたどり着く。
信達一ノ瀬王子跡は表示が無いので確認は出来ないが社のなかに馬頭観音があり多分ここがそうであろうと考えた。
JR線を越して山道を上がると林昌寺がありこのお寺は天平年間(729-748)に開創されたが信長の根来攻めで全焼。江戸時代に再建されたそうで見事な名庭園が斜面に配置されている。
長岡王子跡を求めて岡中の楠を遠方から見つけ畦道を通って楠がある社にたどりついたが付近で聞きまわるも長岡王子跡の消息はつかめなかった。その代りこの楠の大木をじっくりと見ました。 周りに別の木がないのでその大きさが遠方からも見える。 帰りのJR列車からも良く見えました。
そして愈々街道一の難所と言われる琵琶ヶ懸崖を通った。
地蔵王子と馬目王子跡は街道沿いにあり比較的容易に見つけられた。 
山中宿はビックリ。 地元の人たちが多分町起こしで石畳を整備し見事な景観を作りだし
ています。
新家駅からJR山中渓駅まで約10kmを6時間(休憩、昼食時間を含む)で歩いたから今回は比較的短かったのですが変化に飛んだ楽しい歩きが出来ました。
これが実質大阪歩きの最後です。次回からは愈々紀州路となります。

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March 26, 2012

天草の旅 P4-田原坂 03122012

田原坂は前から非常に気になっていた場所で今回、熊本城へいったのでそこから田原坂へ立ち寄った。
かなり高齢のボランタリの老人が案内してくれた。
しかし自分の興味が先走り案内の先を行ってしまう。
最初に気が付いた事は田原坂の位置で山の中では無く丘のような場所で何故このような場所で激戦が行われたのであろう?
場所によって違うであろうが薩摩軍が先に布陣をしており下から攻める政府軍を丘の上に向かう道の両側から挟むように打つので思うような攻撃が出来なかったようです。
薩摩軍に包囲され熊本城に籠城されている政府軍は食糧が不足しているので政府軍は早くこの田原坂を突破したい。
突破のきっかけを作ったのが近衛兵の大砲でこの砲撃が薩摩軍に打撃をあたえ政府軍はようやく突破出来た。 熊野古道完歩会の第一回で真田山の旧陸軍墓地で説明を受けた近衛兵の墓石はここで戦った人たちなのだ。
西南戦争では政府軍6,923人、薩摩軍7,186人という大量の戦死者の内、ここ田原坂で約4、000人の戦死者というから、まさに西南戦争の勝負を決めた戦いであったのだ。
関ヶ原の戦いでの戦死者は約8,000人と言われているから西南戦争での戦死者は史上最大の数かもしれない。 その為にこの戦争で日本赤十字社の基礎となる組織が出来たそうです。
“雨は降るふる人馬は濡れる。 越すに越されぬ田原坂
右手に血刀、左手に手綱、馬上ゆたかな美少年”の歌が流れ、
“美少年”の銅像がありました。
最後に私が気になって居た質問を老ボランティアにした。それは
“基本的には薩摩が起こした戦争で熊本の地が激戦の戦場になった事に対し熊本の人たちはどう思っていますか?”
”熊本は薩摩と同盟かんけいにあり薩摩を応援していた。 薩摩人の強さを尊敬していた。”
なるほどと思いました。田原坂には薩摩人の墓地等を見ると手厚く葬むられている事が伝わります。 そして”馬上の美少年像”は薩摩人といわれそれを地元の人たちが故郷創生基金で作ったのだと聞きました。
短時間で博物館を見る時間が無かったが非常に心に残る場所でした。


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March 23, 2012

天草の旅 P3-熊本城 03122012

当初、彦山に登ろうと言う計画であったが時間が無いため急遽観光に変更。

熊本城に行った。

日頃、大阪城を見慣れている私の目には熊本城の堀、石垣の長さにビックリです。

再建された城ですが多分加藤清正が設計した城に復元されている様でその偉大さに感動。

形が良いですね。

二の丸駐車場脇に“神風連”の石碑があった。

その首謀達、加屋霽堅、斉藤木三郎などの戦死の跡と記してある。

この神風連の乱はたしか田原坂の戦の一年程前に熊本で失業した氏族達が特に政府が発令した廃刀令に対する反乱で直ぐに鎮圧されたがこの流れがやがて西南戦争に発展してゆく。

また、この乱の事はラストサムライのストーリーの一部にも組み込まれているようです

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天草パールマラソン

参加したパールマラソンのスタートを見ることが出来ました。

ランナーの熱気が伝わってきます。

http://youtu.be/lAWberzSDaM

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March 21, 2012

天草の旅 P2-天草パールマラソン 03112012

昨夜と今夜宿泊するログハウスは上天草の大矢野島にある。
3月11日、天草パールマラソンが開催され私たちも参加する事に。
開会式は盛大に行われ宋兄弟のスピーチがありまた東北の被災地からの二人のスピーチがあった。
私たちはフミリーコース4.2kmに参加し私は歩く!
その後昨年も行った洞窟温泉に行き疲れを癒す。
夕暮れまでに時間があったので第五橋目を渡ったすぐの高台に登って天草松島の美景を堪能しました。

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March 17, 2012

天草の旅 P1-平戸 03102012

昨夜(3月9日)フェリーで神戸から門司に到着しレンタカーで平戸に向かう。

佐世保までは高速で来たがそこから平戸までは時間がかかった。

やがて橋を渡り右手に平戸城が見えた。

最初は寺院と教会が見える坂を目指す。

何しろ時間が無いので教会へは行かず、街並みを歩いて反対側のオランダ倉庫を目指す。

常夜灯を近くで見てオランダ突堤や井戸、塀を見た。

2000年の日蘭修好400年記念に設置された“オランダ街道ここに始まる”の案内板があった。

つまりいまから412年前に始まった街道である。

日本とヨーロッパの修好がここから始まった。

前から気になって居たこの地点、今ここに来られて本当に良かった。

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March 09, 2012

南高梅 03062012

2月18日に大阪城梅園に行った時に、植木屋で南高梅の苗木を2000円で買った。

その南高梅がここ4-5日の気温の緩みでほぼ満開になりました。

ミツバチも2-3匹飛んでいた。

 

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March 06, 2012

熊野古道完歩 第五回 02192012

今回はJR東岸和田駅を出発して先ず道の池の地蔵をさがした。

池のほとりにあり、昔の古道の脇に置かれた地蔵の風情を漂わせる。

池の表面を良く見ると細いテグス糸が前面に張り巡れされている。鳥よけなのか? 付近の別の池でも同様です。

次の麻生川王子は三和製作所の所にあるようだが休日で誰も居らず、また付近に人が居ない。

半田一里塚は熊野古道に設けられていた一里塚の原型を留めているようです。

旅人達がこの塚の木陰での休憩している姿が見えそうですね。

地面を走る水間鉄道を横切り積善寺城跡をみます。 大阪(石山城)を手に入れた信長は秀吉に紀州平定を命じましたが、根来衆と雑賀衆の鉄砲を使い金でいる彼等に手を焼きました。だからこの小さな城も中々落とせなかったようです。

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和泉橋本駅近くにある丸山古墳は小さいけれど前方後円墳ですが周りがびっしりと人家に取り囲まれ隣接しえいます。

この付近にあったといわれる蔵持王子と近木王子は南近義神社に合祀されていました。 そして鶴原王子は全く手がかり無くあきらめる。

佐野王子は綺麗にしっかりと整地された小さな公園様になっており気持ちが良いですね。

そして戦国武将、塙団衛門の墓を過ぎると皆さんの疲労も逼迫し和泉砂川駅まで行く事は断念して一つ前のJR新家駅で今回の修了とした。

その近くで籾井王子跡は近所の人に尋ねて民家の庭の奥にひっそりと佇む石碑を見つけた。

今回は新家駅でほぼ18kmの距離となりました。

 

 

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