May 22, 2012
May 08, 2012
May 05, 2012
熊野古道完歩会 第七回 04302012
日時:2012年4月30日
家を出る時に玄関で左足の甲外側を打ち痛みが走るもそのまま継続。
JR山中渓駅を9時半に和歌山目指して出発。
道幅に対し車の交通量が多く危険を感じ地道を探したが無い。
県境のすぐ手前に“日本最後の仇討場”がある。 横の川を渡れば和歌山県です。
当時の紀州藩は領地を出た所で仇討を許したそうです。
今日の行程は全体に下りで比較的楽であるが私の足には良くないようです。
中山王子跡で仲間から湿布を貰って痛いカ所に貼り付けました。
和歌山に入って最初の集落、滝畑は昔の山里のような雰囲気があるます。
この辺りから“ゴミ処理場の建設反対”看板が頻繁に見えます。
“熊野古道を美しくしています”の看板も。
そして峠の不動尊の小さな社があります。 中には小さな石の不動尊がおりました。
やがて湯屋谷の集落にはいり山口王子跡を見、そして漸く住民と出会って小野小町の墓所を訪ねる。 その方は“ほんとうかどうかは知りませんが、あそこの人様の墓地の中ですから入れて貰って見てください。
そして山口神社の鳥居を過ぎたあたりでギブアップ。
今日の予定は布施屋まで16kmをここJR紀伊駅近くのほぼ10km地点で終了とさせてもらいました。
残念
April 27, 2012
April 22, 2012
April 04, 2012
April 01, 2012
March 28, 2012
熊野古道完歩会 第六回 03202012
9時過ぎにJR新家駅を出発して前回終わった古道の四角から歩き始める。
最初に着いたのは樫井古戦場で大阪夏の陣の際、ここで東軍と西軍が対峙したが西軍の埴団衛門が抜け駆けして西軍の布陣を崩し負ける原因となったそうです。
次に訪れた海会寺跡は7世紀建立で法隆寺と同じ伽藍配置であったそうです。 回廊の柱跡に赤いレプリカが建てられていました。
厩戸王子跡は地元の人に聞いて田圃のあぜ道を通りたどり着く。
信達一ノ瀬王子跡は表示が無いので確認は出来ないが社のなかに馬頭観音があり多分ここがそうであろうと考えた。
JR線を越して山道を上がると林昌寺がありこのお寺は天平年間(729-748)に開創されたが信長の根来攻めで全焼。江戸時代に再建されたそうで見事な名庭園が斜面に配置されている。
長岡王子跡を求めて岡中の楠を遠方から見つけ畦道を通って楠がある社にたどりついたが付近で聞きまわるも長岡王子跡の消息はつかめなかった。その代りこの楠の大木をじっくりと見ました。 周りに別の木がないのでその大きさが遠方からも見える。 帰りのJR列車からも良く見えました。
そして愈々街道一の難所と言われる琵琶ヶ懸崖を通った。
地蔵王子と馬目王子跡は街道沿いにあり比較的容易に見つけられた。
山中宿はビックリ。 地元の人たちが多分町起こしで石畳を整備し見事な景観を作りだし
ています。
新家駅からJR山中渓駅まで約10kmを6時間(休憩、昼食時間を含む)で歩いたから今回は比較的短かったのですが変化に飛んだ楽しい歩きが出来ました。
これが実質大阪歩きの最後です。次回からは愈々紀州路となります。
March 26, 2012
天草の旅 P4-田原坂 03122012
田原坂は前から非常に気になっていた場所で今回、熊本城へいったのでそこから田原坂へ立ち寄った。
かなり高齢のボランタリの老人が案内してくれた。
しかし自分の興味が先走り案内の先を行ってしまう。
最初に気が付いた事は田原坂の位置で山の中では無く丘のような場所で何故このような場所で激戦が行われたのであろう?
場所によって違うであろうが薩摩軍が先に布陣をしており下から攻める政府軍を丘の上に向かう道の両側から挟むように打つので思うような攻撃が出来なかったようです。
薩摩軍に包囲され熊本城に籠城されている政府軍は食糧が不足しているので政府軍は早くこの田原坂を突破したい。
突破のきっかけを作ったのが近衛兵の大砲でこの砲撃が薩摩軍に打撃をあたえ政府軍はようやく突破出来た。 熊野古道完歩会の第一回で真田山の旧陸軍墓地で説明を受けた近衛兵の墓石はここで戦った人たちなのだ。
西南戦争では政府軍6,923人、薩摩軍7,186人という大量の戦死者の内、ここ田原坂で約4、000人の戦死者というから、まさに西南戦争の勝負を決めた戦いであったのだ。
関ヶ原の戦いでの戦死者は約8,000人と言われているから西南戦争での戦死者は史上最大の数かもしれない。 その為にこの戦争で日本赤十字社の基礎となる組織が出来たそうです。
“雨は降るふる人馬は濡れる。 越すに越されぬ田原坂
右手に血刀、左手に手綱、馬上ゆたかな美少年”の歌が流れ、
“美少年”の銅像がありました。
最後に私が気になって居た質問を老ボランティアにした。それは
“基本的には薩摩が起こした戦争で熊本の地が激戦の戦場になった事に対し熊本の人たちはどう思っていますか?”
”熊本は薩摩と同盟かんけいにあり薩摩を応援していた。 薩摩人の強さを尊敬していた。”
なるほどと思いました。田原坂には薩摩人の墓地等を見ると手厚く葬むられている事が伝わります。 そして”馬上の美少年像”は薩摩人といわれそれを地元の人たちが故郷創生基金で作ったのだと聞きました。
短時間で博物館を見る時間が無かったが非常に心に残る場所でした。
March 23, 2012
天草の旅 P3-熊本城 03122012
当初、彦山に登ろうと言う計画であったが時間が無いため急遽観光に変更。
熊本城に行った。
日頃、大阪城を見慣れている私の目には熊本城の堀、石垣の長さにビックリです。
再建された城ですが多分加藤清正が設計した城に復元されている様でその偉大さに感動。
形が良いですね。
二の丸駐車場脇に“神風連”の石碑があった。
その首謀達、加屋霽堅、斉藤木三郎などの戦死の跡と記してある。
この神風連の乱はたしか田原坂の戦の一年程前に熊本で失業した氏族達が特に政府が発令した廃刀令に対する反乱で直ぐに鎮圧されたがこの流れがやがて西南戦争に発展してゆく。
また、この乱の事はラストサムライのストーリーの一部にも組み込まれているようです。
March 21, 2012
March 17, 2012
March 09, 2012
March 06, 2012
熊野古道完歩 第五回 02192012
今回はJR東岸和田駅を出発して先ず道の池の地蔵をさがした。
池のほとりにあり、昔の古道の脇に置かれた地蔵の風情を漂わせる。
池の表面を良く見ると細いテグス糸が前面に張り巡れされている。鳥よけなのか? 付近の別の池でも同様です。
次の麻生川王子は三和製作所の所にあるようだが休日で誰も居らず、また付近に人が居ない。
半田一里塚は熊野古道に設けられていた一里塚の原型を留めているようです。
旅人達がこの塚の木陰での休憩している姿が見えそうですね。
地面を走る水間鉄道を横切り積善寺城跡をみます。 大阪(石山城)を手に入れた信長は秀吉に紀州平定を命じましたが、根来衆と雑賀衆の鉄砲を使い金でいる彼等に手を焼きました。だからこの小さな城も中々落とせなかったようです。
和泉橋本駅近くにある丸山古墳は小さいけれど前方後円墳ですが周りがびっしりと人家に取り囲まれ隣接しえいます。
この付近にあったといわれる蔵持王子と近木王子は南近義神社に合祀されていました。 そして鶴原王子は全く手がかり無くあきらめる。
佐野王子は綺麗にしっかりと整地された小さな公園様になっており気持ちが良いですね。
そして戦国武将、塙団衛門の墓を過ぎると皆さんの疲労も逼迫し和泉砂川駅まで行く事は断念して一つ前のJR新家駅で今回の修了とした。
その近くで籾井王子跡は近所の人に尋ねて民家の庭の奥にひっそりと佇む石碑を見つけた。
今回は新家駅でほぼ18kmの距離となりました。






































































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